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 中嶋しい作品について論評することは、私にとってかなり至難のことである。が、10年以上彼女の仕事を見続けてきた者として、逃げを打つわけにはいかない責務もあるだろうと思う。

 彼女はつい先日、東京では久しぶりの個展を開いた。その中心的な作品『Damnatio Memoriae-記憶の断罪-』(100号)はスケッチやみずから撮影したり、書き写した遺跡の文字を、積層させたアクリル板に銀塩レーザーでプリントしたり、彫り込んだりしながら、湾曲する線・面と直線とをを絡み合わせて構成している。それは世紀前をモティーフにしながら、洗練された簡潔さ、空間を孕んだ大胆な構成と手法とによって、きわめて新鮮で今日的印象を与えてくる。そこに刻印された文字や物語性などがわからなくても、十分楽しめる。・・・など、印象や解説的なことは何とか紹介できる。

 しかし、彼女の作品はそれだけではほとんど何も語ったことにはならないのではないか。それが私にとって重圧となる。

 中嶋しいの作品には、目に映り脳で理解しただけでは摑みきれない何かがある。それを敢えて言えば気、霊的な気とでも言えば良いであろうか。

 彼女は、何ものかに引かれるように2007年初めてイタリアへ赴き、フォロロマーノを訪れている。そして初めてにもかかわらずデジャビュ(既視感)に襲われたという。何らかのインスピレーション、霊的体験を得たのかもしれない。その後もたびたび理解不可能な体験があって、思い切って前世セラピーを受けたところ、彼女の前世は古代ギリシャの小国の男性で職人(技術)であったという。その彼は様々な艱難辛苦があったが、このセラピーに得心した彼女は、制作にいたずらな迷いもなく、明るく楽しく制作にのぞめるようになったという。

 個展を終えて旬日を経ず、彼女はイタリアへ何度目かの旅に立った。おそらく精力的なフィールドワークに明け暮れ、また何かインスピレーションを得て帰ってくることだろう。繰り返しローマと東京、古代と現代を往還することで、その作品は複眼的視点、さらには重層的な精神性を深めてくることだろう。

 それまで私も、いささかでも心の鍛錬を深めておこうと思う。               美術評論家 中野 中( 2015年)

の断罪-』(100号)は、